
Hiroki Tohya
明治維新史
知的財産の国際政治経済学
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現地写真
(海援隊 備讃瀬戸グループの活動)
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※ 写真は海援隊の活動の時系列にほぼ沿った順に配列しています。写真をクリックすると説明文が表示されます。
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慶應四年(1868)一月一八日、海援隊の長岡謙吉は丸亀藩に高松征討令を伝える使者として乾三四郎(迅衝隊)と共に川之江を先発した。丸亀藩は土肥大作を参謀とする部隊を編制し長岡はこれに合流した。 この時、長岡が丸亀城に入城したかは不明。2016年10月13日撮影。

【参考】丸亀入りした長岡謙吉は唐津屋(写真中央あたり)で丸亀藩士各務半左衛門と情報交換したとする説があるが、要確認(遠矢はその根拠をまだ知らない)。 丸亀駅近くのアーケード街(浜町商店街)の中。丸亀市浜町。2016年10月13日撮影。

慶應四年(1868)一月一八日に川之江を出発した迅衝隊は翌日に丸亀に至り、中村楼を本陣とした。川之江で迅衝隊に合流した海援隊もここに宿陣したと思われる。 のち海援隊は白蓮社(後述)に本部を置いたが、隊長長岡謙吉は中村楼に宿した。 香川県丸亀市西平山町。丸亀平山郵便局向かいあたり。2016年10月13日撮影。

中村楼(前頁)の裏手は海だった(現在は埋め立てられている)。迅衝隊本隊は慶應四年(1868)一月二〇日、丸亀から海路、高松に向かった。その前日、海援隊の岡崎山三郎・恭輔兄弟が漁船で高松へ日帰りの斥候をした。 写真の青い橋は丸亀港の京極大橋。2016年10月13日撮影。

慶應四年(1868)一月二〇日朝、迅衝隊本隊は丸亀から海路で屋島(八島)に上陸し高松城下に入った。海援隊の岡崎山三郎が嚮導を務めた。 香川県高松市。2016年10月12日撮影。

慶應四年(1868)一月二〇日、高松城下に入った迅衝隊本隊は錦旗を擁して真行寺(しんぎょうじ)に宿陣し、陸行する部隊の合流を待った。 香川県高松市扇町。2016年10月12日撮影。

本堂は当時のものが現存。 2016年10月12日撮影。

真行寺の庭。写真右上の松の木あたりにかつて書院があり、迅衝隊大隊司令の乾(板垣)退助が政務を執ったと寺に伝わる。 2016年10月12日撮影。

慶應四年(1868)一月二〇日、長岡謙吉ら海援隊士十数名は丸亀藩・多度津藩兵と共に陸路で高松に達した。長岡ら七名は斥候として高松城に一番乗りを果たした。高松城は同日、無血開城。 香川県高松市玉藻町。2016年10月12日撮影。

慶應四年(1868)一月二一日、長岡謙吉は海援隊士 二名とともに象頭山(ぞうずさん)の金毘羅大権現に行き軍資金千両を借りた。金刀比羅宮にはその借用証書があったが現存しない。 香川県三豊市・善通寺市。2016年10月13日撮影(丸亀城天守閣付近から)。

慶應四年(1868)一月一九日、塩飽島小坂浦の漁民が蜂起。世襲の人名(にんみょう)株を持たず差別されていた漁民の一団が、人名制の根拠となる朱印状奪取を企て塩飽勤番所(人名の政庁)を目指した。 塩飽本島は香川県丸亀市に属する。2016年7月14日撮影。

(承前)小坂浦の蜂起漁民は人名の裏をかいて海岸線(写真右)を通らず、泊山(写真中央)を越えて奥所(おくじょ)地区を襲撃し、背後から泊浦の宮ノ浜にある勤番所に迫った。 2016年7月13日撮影。

(承前)人名側は惣年寄が招集した笠島浦若衆が勤番所備え付けの火縄銃を用い、八幡神社で蜂起漁民を迎撃した。双方に死者。 社殿から見た境内。塩飽の海を見下ろす。2016年7月13日撮影。

(承前)人名勢は小坂勢の再挙に備えて塩飽十一島に召集をかけ、小烏(こがらす)神社に本営を構えた。 左の建物は芝居小屋「千歳座」(幕府禁制のため神社の納屋の名目で建築)。2016年7月13日撮影。